2015年08月

2015年08月29日

ゆっくり休んでいてくれたらいいなあ

204 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/06/08 02:15:00
父が突然倒れて、そのまま死んでしまった後、1年ほどしたある夜、母が見た夢の話です。 
 その夢の中では父は死んでおらず、ただ倒れて入院した、ということになっていたそうです。 
父は、 
「ずいぶん仕事をやすんでしまったせいか、職場へ行っても仕事が無い。 
 毎日、毎日職場へは行くけれど、仕事がないので自分の席に座っているだけなんだ」 
と、母に言ったそうです。 

それから数年。広い家も必要なくなった母は引っ越しをしました。 
(私は父が亡くなる前に結婚をして家を出ていましたし) 

 そして、今度は私が父の夢を見ました。 
父から電話がかかってくる夢です。 
「なあ、今、バス停にいるんだけど、迎えに来てくれないか? 
 家に帰れないんだよ。お母さんに迎えに来るように言ってくれ」 
元の家とバス停は2分も歩くかあるかないかの距離。バス停から家が見えるようなところでした。 

関係あるのかないのかはわからない、心霊かどうかもわからない話ですけど・・・ 
もしかしたら、まだ父は仕事をしに毎日職場へ通っているのかもしれないなあ、でも、そうでないと 
いいなあ、ずっと仕事ばかりだったのだから、ゆっくり休んでいてくれたらいいなあ、と思うのです。 



206 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/06/08 02:39:00
>>204 
ぜんぜん関係ないけど、お母さんと一緒に住んであげればいいのに・・・ 
とか、かなり御節介なことを考えてしまった・・・スマソ 



207 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[sage] : 投稿日:2003/06/08 02:55:00
>>206 
心配させてすんません。 
今、お母さんは妹夫婦と孫2人、それから犬一匹に囲まれて暮らしてます。 



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白いワンピースを着た女性

200 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/06/08 01:40:00
えっと・・僕は文才もないのでおもしろおかしく書けませんがひとつ気になる事があるんです。 
霊感とかもまったくないし、電波も受信してませんがw不思議な事があったんです。 
それは親戚の家に泊まった時の事なのですが・・・夜寝ていると白いワンピースを着た女性があらわれるんです。 
夜中に顔をのぞきこまれたり、なぜか脚でつっつかれた事もあります(w 
夢と言われればそれまでなんですがいつも同じ人なんです。 
臆病な僕なんですけど、なぜかその人は怖くなくて。。すごく綺麗な人なんです。 
この次にその家に泊まりに行くのが怖いような。。楽しみのような複雑な感じですw 
これも恋みたいなもんなんですかね^^ 
あ~全然切なくないですね^^; 




201 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[sage] : 投稿日:2003/06/08 01:49:00
>>200 
心霊的に切なくはないけど、恋の切なさということはあるかも。 
将来会うかもしれない人とか? 悪い霊みたいじゃないですね。 
もっとも自分が見たらきれいと思うか怖いと思うかは分からないが… 



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2015年08月28日

よく手を洗いにいく

180 : 1コピペ ◆ozOtJW9BFA [] : 投稿日:2003/06/07 23:58:00
Sさんは都内の某中小企業に勤めるサラリーマン。 
そこそこの役職に就き、妻と娘を養っている真面目が取り柄な人です。 
そんなSさんですが、実は変な癖があるので社内でも有名でした。 
それは「よく手を洗いにいく」こと。 
神経質な程、手を洗いに行くのです。 
別に極度の脂性というわけでもありません。 
はたから見ても綺麗なのに洗いに行くのです。 
こういうモノは大抵、昔のトラウマなんかが関係しているものです。 
周りの人たちも気にはなっていましたが、理由を聞けないでいました。 
ところが、ある日、 
Sさんと飲みに行った後輩の一人が酔っぱらったついでにSさんに聞いたのでした。 
「どうして、よく手を洗いに行くんですか?」って。 
最初はいろいろと誤魔化していたSさんでしたが、 
後輩がカマかけるつもりで言った、 
「ひょっとして、幽霊とか、あっち関係の話なんですか?」に反応してしまった。 


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橋北中学校水難事件

橋北中学校水難事件または津海岸集団水難事件は、1955年7月28日に三重県津市の津市立橋北中学校の女子生徒36人が、同市中河原海岸(文化村海岸)で水泳訓練中に溺死した水難事件。

当時の新聞の見出しには、

「津水死事件」「集団水死事件」「津の女生徒水難事件」「津の中学生水難事件」、

週刊誌では「津海岸集団水死」、また「津海岸女生徒水難事故」、

ネット上では「津海岸水難」、「三重県津市の橋北中学校の生徒の水難事件」といった名称が見られる。

この事件は、教師の注意義務とその範囲が裁判で争われ、日教組対反対勢力という政治的意味合いをもつものでもあった。

しかしながら上記各裁判所の判断にみられるように事故要因の発生原因については不明あるいは推定の域を出ていないものである。


7月28日、水泳能力のテストを行うことを教職員間で打ち合わせた後、体育主任は補助の3年生とともに一般生徒職員より先に学校を出発して、文化村海岸の訓練場に到着した。

水泳場設定時(午前10時10分前頃)は、小潮の日の中でも最も干満の差の少ない日の七部満ち前後の潮具合の時である。

無風快晴で海面には格別の波もうねりもなかった。

しかし満ち潮の流れとは違った潮の流れが前日とは逆に水泳場を南から北に流れており、これに気づいて教諭に告げた水泳場設定に当たった水泳部員もいた。

テストの方法は、沖の境界の表示竿から少し内側に色旗付竹竿を10m置きに約10本立て、2本目まで泳げた生徒には20mと書いた距離札を男子水泳部員が渡すというものである。当日参加した女子生徒は約200名である。

職員に引率され、体育主任らよりやや遅れて海岸に到着した一般生徒のうち女生徒に教諭が入水の注意、潮の流れがあることを告げ、点呼、準備体操の後テスト前の体ならしの意味で入水時間を10分間として午前10時頃一斉に海に入った。

男子生徒も同様である。

女子の集合場所は男女水泳場の中央寄りであったことから、自然にそこから女子水泳場東北隅に向かって扇形に散開するような形で海に入ることになった。

約200名の女子生徒は泳げない者が大半を占めていて、テストで少しでも泳げる者としての認定を受けようとして浅くて水泳に適さない渚寄りを避けて大勢が沖の境界線に集まった。

ところが海に入ってから2,3分後、女子生徒100名前後の者が水泳場東北隅附近で一斉に身体の自由を失い、溺れるに至った。

生徒のほかに女性教諭も溺れている。

溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や3年生水泳部員に海水浴客が協力して懸命に救助に当たった。

校長も生徒を引き連れ海に入っていたが、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気づき、助けて上陸している。

教諭の一人が自転車で約500m離れた芸濃地区組合立隔離病舎に急を告げ、医師と看手が現場に自転車で急行、少し遅れて看護婦も到着、救い上げられた10余人にカンフル注射や人工呼吸を施した。

次いで樋口病院から自動車で医師が駆けつけ、この自動車を見た警察が初めて事故を知り、三重大学付属病院や伊勢市の山田日赤病院に応援を求めた。

津警察署からは救援隊が、三重県警察本部機動隊、久居の自衛隊衛生班、県庁職員も出動した。

4名の漁師も舟で救援に協力した。三重大付属病院から院長ら医師13名、看護婦8名が到着したのは12時15分であった。

14時50分には山田日赤病院から医師6名,看護婦10名も到着した。

49名を引き揚げ、必死の手当てで13名は意識を回復したが(5時間半の人工呼吸で助かった生徒もいる)、36名は生き還らなかった。

蘇生した13名は市内の病院で手当てを受けたが、うち6名は海水が多量に肺に入っていたため嚥下性肺炎を併発、28日夜重体に陥ったが29日朝危機を脱した。

橋北中学校の学校葬は8月1日に行われた。

なお、8月6日には岩田川で水難女生徒の冥福を祈る灯篭流しが行われ、花火を合図に人々が黙祷を捧げている。


十年前の七月二十八日、米空軍の落す焼夷弾を避けて海へ漬かった避難民百名ほどが、場所も全く同じ中河原のミオで溺死したという。

その時も例の“タイナミ”(安濃川の河口の水と南北へ流れる上げ潮がぶつかって起る波)が起って、アッという間に百余名の命をのんだというが、

いまもそのあたりの砂浜には、当時の避難民の遺骨が埋められている…

また1956年7月29日付の伊勢新聞には

「…当時おぼれて助かった女生徒の一人はそのとき海の底からたくさんの女の人がひっぱりに来たといっている」

「…終戦の年の同月同日、津市中心部が一夜にして灰燼に帰した空襲時に、この文化村海岸の松原に避難して爆死した多くの難民たちの無縁仏がひいたのだという伝説も想いおこされる」

という記述がある。

さらに、「…身元不明の遺体は砂浜に埋葬されたと聞きました。それから十年後同じ日、中学生の水難事故がありました。遺体の埋められた場所の近くです。生存者の話によると防空頭巾をかぶったおばさんが呼んだと云います」

という、7月28日の空襲時、海岸へ逃げそこでもB29による焼夷弾攻撃を受けたという体験談、

「この日は奇しくも十年前の昭和20年7月28日の焼夷弾攻撃の日であった。当時、中河原地区では焼夷弾で死んだ人々の霊がまだ成仏していないのではないかという、うわさが広まったそうである」

1963年には、女生徒の体験記が女性週刊誌に掲載される。

これは、頭にはぐっしょり水をすいこんだ防空頭巾をかぶり、モンペをはいた何十人という女がこちらに向って泳いできて、

「夢中で逃げようとする私の足をその手がつかまえたのは、それから一瞬のできごとでした」

「しだいにうすれていく意識の中でも、私は自分の足にまとわりつてはなれない防空頭巾をかぶった女の白い無表情な顔を、はっきりと見つづけていました」

というものであり、津市郊外の郵便局長の話として、1945年7月28日の空襲で警察署の地下室に逃げ込んだ人々が

「皆、煙にまかれて窒息死した。死者は250名をこえていただろう。その処理に困った市当局は、海岸へ捨てることに決めたが、漁師たちが反対したので、一部は油をかけて焼き、残りの大部分は砂浜に穴をほって埋めてしまったのだ」

という記述があり、これが「伝説」の原形であると思われる。

これはほぼ同じ形で、松谷みよ子『現代民話考に収録されているが、人々は蒸し焼きであり、もんぺをはいた女の人が大勢泳いでいて、こっちへおいでと招いたと変形している。

「引き取り手のない遺体はしかたなく津海岸の北の方、安濃川河口近くに葬られました」

ということになっている。

津への空襲は、1945年3月12日、3月19日、4月7日、6月26日、7月16日、7月24日、7月28・29日と大小合わせて7回に及んだ。

7月28・29日の空襲は米第20空軍第58大隊の第297作戦でB29・78機により、E48・500ポンド親爆弾2919発(662トン)を投下したものである。

親爆弾にはM69焼夷弾が36発納められており、これが10万5千84発投下されたことになる。

爆弾投下は28日午後11時47分から29日午前0時56分、高度は3300~3500mであった。

日本側は高射砲で応戦したが戦果はない。

その被害は津市中心部全域に及び、死者344、傷者246、行方不明38、全焼9188、罹災戸数10000、罹災人員41000に達した。

この事故以降、県内の中学校にプールの設置が急がれることになったとされている。

また三重県津市では海水浴場として阿漕浦や御殿場などがあり、潮干狩りやマリンスポーツ、海水浴などたくさん人が訪れるが、事故現場一帯の中河原周辺の海岸は遊泳禁止となっている。


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モウスグ・・モウスグ・・・・

175 : 1コピペ ◆ozOtJW9BFA [] : 投稿日:2003/06/07 23:55:00
これは、俺が専門学校時代のクラスメイツi(男)の体験談だっ! 
iは某銀行支店長の息子だ。 
iは次男坊で12才年上の兄がいる、 
年をとってからできた子はかわいい・・・・。 
それは、年の離れた弟にも当てはまるのだろう。 
iは両親と兄に可愛がられ、ぬくぬく育った。 
そんなわけで、iはかなりわがままだ。 
i19才、彼(と両親&兄)に「飴と鞭」という言葉は無縁だった。 
やさしい兄は、新車を買ったやさしい兄は、 
iにお古の車を与えた(飴)RV車だ。 
iは、喜んだ。 
iは、走った。 
海へ、山へ、走りまくった。 


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日本に一緒に帰ろう。この船に乗れよ

128 名前: 121 投稿日: 01/10/20 14:29 

今オヤジと離れて暮らしてるから、とりあえず覚えてるやつを書くね。 
今度会った時にまた聞いておく。 

よくあるパターンなんだけど、波間に頭だけ出ていて 
「おーいおーい」っていう霊は結構頻繁に見たらしいよ。 
太平洋のどまん中でさ。オヤジが当直に立った時とかも、 
何度か見たって言っていたよ。いきなり「おーいおーい」だもの。 
最初は慌てて「漂流者だ!」ってみんなを呼んだりしたらしいけれど。 
古参のひとは航路のどこでそれが出現するか知ってるらしく、 
「ああ、またか・・」って言うんだって。 

当時の船は、レーダーとかも無かったのかな?いやあったのかも 
しれないが精度がイマイチだったのかもしれない。そのせいか、 
船首と船尾に立って、毎日交代で航路を見る「ワッチ」という当直が 
あったらしい。そういう時に出るんだって。 
太平洋の、激戦地の近くとかでよく見たって言ってた。 
きっと戦時中の船が多く沈んでるのかな。 

その「おーいおーい」を見た後は、船のみんなで 
オニギリや酒、タバコなんかを海に投げ入れてやるんだって。 
怖いって言うよりも、同じ船乗りとしてすごく悲しいんだって。 
だから「日本に一緒に帰ろう。この船に乗れよ」って 
心の中で必ずみんな言ってたそうだ。 


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2015年08月27日

グラジオラス

163 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/06/07 02:04:00
新耳5夜に載ってた物ですが 

 Ⅰさんという女性は、以前、自宅で一匹の犬を飼っていた。 
 その犬も年をとって死んだ。 
 翌年、その犬が長年暮らしていた小屋のあった場所から一本のグラジオラスが咲いた。 
グラジオラスはアヤメ科の植物で球根から発芽する。ところが家族の誰も、そんなもの 
を埋めた記憶がない。 
 オレンジ色のグラジオラス。 
 翌年家を建て替えた。 
 庭にはブルドーザーが入り、庭土を全て削りだして駐車場にした。 

 その翌年の夏、砂利を敷いた駐車場の隅から一本のグラジオラスが芽を出し、 
立派なオレンジ色の花を咲かせた。 
 その場所はやはり、あの犬小屋があったところだった。 
 建て替え前の庭の土はまったく残ってないのに・・・と家族は不思議がった。 
 その後もグラジオラスは、毎年毎年オレンジ色の花を咲かせたが、一度だけ 
白い花を咲かせた。 
 その年はⅠさんのお姉さんが結婚した年だった。 

 今年も、駐車場の隅にグラジオラスが花を咲かせようとしている。 


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シックス・センス

155 : あなたのうしろに名無しさんが・・・[] : 投稿日:2003/06/07 01:09:00
これから書く話は僕が25年間つきあっていた友達の話です。 
これからも続けて彼の話を載せていきたいと思っているので、これはその序文とも言えるでしょう。 

彼は映画「シックス・センス」を地でいく人でした、死んでいる人、いわゆる霊が見える人です。 
他にもちょっと変わったやつでしたが... 

そんな彼も去年病気で死んでしまいました。 
彼が死ぬ前の日、夜電話をかけてきて 

「明日必ずきてくれないか」といいだしたのです。 

僕もちょうど暇だったけど、今日彼を見舞いに行って来たばっかりだったので 

「何だよ、今日会ったばっかりじゃないか」 
というと 

「明日はどうしてもきてほしいんだ」 
と何度も頼むので 

「わかった。会社が終わったらすぐいくから」 
と返事をし、彼も安心したようでした。 


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東名高速道路の海老名のサービスエリア

144 : 1コピペ ◆ozOtJW9BFA [] : 投稿日:2003/06/07 00:22:00
普通通りに帰路についた、学校の帰りでした。 
僕の学校は一応私立の学校なので、部活をやってから帰ると家につくのは8時をまわるのも珍しくありません。 
この時の時間は午後8時半ごろだったと思います。 
それは一瞬の出来事でした。ほんの一瞬に、いやな悪寒が全身に走りました。 
向こうの方から車が走ってきました。 
中央を歩いていた僕は当然のごとくわきに避けました。 
車の中を覗いてみるとカップルでした。この時に彼女のいなかった僕は、 
「彼女とか欲しいな~」などと気楽なことを考えていただけでしたが、、、、、。 
もう1回すれ違い様に車内を覗いてみると誰もいませんでした。 
とっさの出来事だったので瞬時には変だとは思いませんでした。 
しかし、数秒後に「あれ?」と思いました。 


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賽の河原

俗に三途川の名の由来は、初期には

「渡河方法に三種類あったため」

であるともいわれる。

これは善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、とされていた。

しかしながら、平安時代の末期に、

「橋を渡る(場合がある)」

という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方に変形する。

渡船の料金は六文と定められており、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が以来ずっと続いており、現在では「文」という貨幣単位がないことや火葬における副葬品制限が強まっていることから、紙に印刷した六文銭(→冥銭)が使われることが多いようである。

また、三途川には十王の配下に位置づけられる懸衣翁・奪衣婆という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合に渡し賃のかわりに衣類を剥ぎ取ることになっていた。

この二人の係員のうち奪衣婆は江戸時代末期に民衆信仰の対象としてブームとなった。

三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。

賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。

そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。

このことから「賽の河原」の語は、

「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。

しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。

ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。

賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。



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